昭和43年5月1日 月次祭 (末永信太郎) №43-061
御理解に信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうする、と。信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰せられる。そうは仰るけれども、なかなか見やすいものとも思われません。けれども、ここにどうでしょうか。その信心が楽しいもの、いよいよ、有り難いもの。ね。
最近、こう、生活をエンジョイするというような言葉を使いますね。信心はエンジョイするというようなことになって参りましたら、信心が例えば、それが難しいことでありましても、楽しい、見やすいものになって来るのでございます。教祖はそういう境地をお開きになって、ああ仰ったんじゃないでしょうかね。
信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうする、と。昔から、悲しい時の神頼み。たしかに、そういう信心でございましたらですね、悲しい時でなからなければ、難儀な時でなからなければ、信心はせんものだといったようなことになりますと、たしかに、難しいことなんだ。
けれども、信心が楽しいもの。ね。信心をエンジョイするようなことになって参りました、信心は本当に楽しいもの。いわゆる、見やすいものになって来るのです。ね。事実、その、見やすいものになって参りませんとね、いわゆる、本当のおかげになって来んのです。ね。
どうか一つ、信心が見やすいものになって行くところのおかげを頂いてもらいたい。またの御理解に教祖は、もとをとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者は見やすうおかげが受けられる、と仰せられる。ね。もとをとって道を開く者はあられぬそれこそ、まあ、あられもない行をする。ね。火の行水の行なんかは、もう朝飯前といったような、その、あられもない修行をするけれども、後々の者は見やすうおかげが受けられると仰せられる。
ね、それはやはり、教祖の神様があのようなご修行を成就して下されて、そして、四神、二代金光様、三代金光様、そして、現お広前の金光様と、その御信心が伝わって参りましたけれども、やはり、二代は二代、三代は三代で、あのようなご修行があっておるところを見ると、ね、教祖様御一人ではないことが分かる。ね。教祖の神様があのような修行をして下さったから、もう、あとは見やすうおかげが受けられるということじゃないことが分かるでしょう。ね。
私どもが一番存じ上げております三代金光様なんかは、十四のお年から八十四歳のお年まで、70年間、ね、ご神前奉仕。いわゆる、ここへお座りし抜かれたのですから。とてもとても、大変なご修行だったと思うですね。ですから、後々の者はということはですね、やはり、まあ、ここで言うならば、ね、ここの中心である私はあられぬ行をするけれども、ここに御神縁を頂く人達は見やすうおかげが受けられるということではなかろうか、と。その見やすうおかげが受けられるというところまでです、私は、皆さんが信心をして頂くために、今日は私が申しております、信心が楽しいもの、ね、いわゆる、じゃあ、有り難いもの。生活をエンジョイするという言葉が最近流行いたしておりますように、信心をエンジョイする、信心を楽しむ。 ね、そういうところまでは、皆さんがです、やはり、信心の修行もなさらなければ、見やすいことになって来ない。信心っちゃ有り難いもんですねえ、信心楽しきもんですね。ね。そこで、最近言われている、一つ、本当な信心を頂かなきゃ。本当の信心を向きを変えての信心でなからなければならないと言われております。でなかったら、楽しゅうならんのです。ね。
だから、本当なことへ、信心が向きを変えられる時にです、信心はいよいよ、そこから楽しいようなものが生まれて来るようになる。最近それは、私は三つの例をあげて申しております。ね、一つ、自らなる心へ帰依する、と。いわゆる、われとわが心が拝まれるようになるためのけいこであるという、信心とは。神様を拝むけいこではなくて、自分自身の心が拝みたいほどに有り難うなって来る。自らなる心の中に神様が宿ってござる。その神様を発見するところまで、信心を進めて行かなきゃならん。
二つ、いよいよ、その御教えの神縁なること、(こえばい?)のあること。ね。それこそ、海よりも深く、または、山よりも高いというような高度な、しかも深い(意味合い?)というものが、あの御教えの中には、いわゆる、神様の教えのあれは塊のようなもんだ、御教えというものは。いわゆる、それを神の叡智と言う。そういう知恵に触れて行き、そういう知恵が私どもにも分からせてもらえれる、頂けれる信心なのである。それが、楽しみでたまらん。今まで知らなかったことを分からせてもらう。ね。
今まで知らなかったことを分からせてもらえれる、その楽しさ、喜ばしさというものは、もう、何を覚えるよりも、何を会得するよりも、楽しいことになって来る。ね。いよいよ御教えを、場合には教学する。いよいよ、その箴言なその御教えをマスターする、自分のものにして行くのである。ね。
次には、金光大神への帰依と言うております。ね。教祖金光大神、ね、その教祖金光大神への帰依であり、それがそのまま、その金光大神のお手代わりをして下さる、自分達の手続きの親。自分の難儀なことを、様々なことを一切をです、神に取り次いで下さるその人への帰依である。
言うなら、ここでは親先生への帰依ということになって来るんじゃないでしょうか。ね。どんなに難儀なことを感じた場合でも、親先生がああ仰って下さるからということになって来るのである。私は右がいいと思うけども、親先生が左と仰って下さるからと、任せられるところまで、その親先生に対するところの帰依が出けるところまで、信心を進めて参りますと、いよいよ、信心は楽しいもの、有り難いものということになって来るのです。ね。だから、信心は見やすいものというのはね、そこまでは、お互いが一つ、まあ、あられもない行でも一つさせて頂いて。ね。そういう気持ちを開かせて頂くと同時に、なるほど先生が言うて下さることが信じれれるおかげを頂かなければならん。ね。
どうでしょうか。一つ、ここまでお話を皆さん頂かれてから、はあ、自分の信心が楽しゅうなって行けれる信心の軌道に乗っておるかどうかを、一つ考えてみて頂きたい。ね。はたして本当に、お参りをさせて頂いて、お話を頂いて、ね、自分自身の心が拝めれるようになるけいこをさせて頂いておれば、もう、それでいいのである。ああ、こればちょっとお願いせんならんから、これば頼んどかんならんから。参りゃあ参るがとおかげがあるということであったら、もう一つそこんところをですね、一つ、方向を変えなきゃいけんです。ね。そして、教えを頂く楽しみ。ね。
朝に夜に、ここで御理解を頂いておる。まあ、中間参って来る人は、テープレコーダーを持って、それを、朝の御理解を聞いておる。ね。そして、日々、はあ、なるほどなるほど、と。合点の行くような、いわば新しい知識に触れて行くことが出ける。神の叡智に触れて行くことが出ける。ね。そこんところが、もう、楽しゅうてたまらん。ね。というところまではね、行かなければ。
そうして行く内に、自ずと御取次をして下さる先生が拝めれるようにもなり、帰依することが出けるようにもなって来るのです。ね。そこで私は、まあ、皆さんがですね、ここのところまでは、まあ、姿勢が正されておる。まあ、皆さんは、信心がある意味合いにおいて楽しゅうなっておられる。有り難いということが分かって来られた、という一つの設定のもとに、今日の話を聞いて頂きたい。ね、皆さんがですよ。
だから、その、只今でもいいですから、本気で一つ有り難うならせて頂こう、と。われとわが心を拝まれるようなおかげを頂かせて頂く道とは、どういう道だろう。そういう道があるなら、教えて頂きたいという、こちらの方にその方向を変えて下されば、只今から私が言うことが分かって頂く。ね。
まあ、言うなら、私がこれから、ね、もとをとって道を開く者はあられぬ行をするけれどもという、あられぬ行はせんでも、みやすうおかげが受けられるという、これからみやすいというとこなの。私が、まあ、性格に言えば五十幾年ですけども、こうして皆さんがここで助かられるようになられてから、丸18年です。ね。その18年間の間にです、もう、これだけは、はっきり申し上げられる。ね。
これだけは、もう、言うならば私のものになっておるということ。ですから、これからはです、もう、あられぬ行をしなくてもですよ、ね、私が今から言うことを、はあ、本当にそうなりさえすれば、というものを頂けば、それでいいわけです。ね。二つ申し上げますから、どうぞ、それを皆さんのものに、ね、それから、これからの修行、また楽しゅうして行くのですから、限りないのですよ。ね。
18年の間にどういうようなことを、私が分からせて頂いたか。これだけは、間違いないということ。それはね、ちと待たせ場つくらんと勿体無か、あんまり一遍に話すと。大変なことなんですよ、本当に皆笑いよんなさるけれども。本当にそれで分かったら、本当に皆さんの、あなた幸せになれるけん。人が幸せになるとはあんまり誰でん好かんですよね。私の心にも、そんなのがあるのかも知れませんね、やっぱり。
例えばね、これは、どういう例えばじがじがするような問題があっても、どういう腹の立つような問題があっても、どういう悲しいことがあっても、どういう痛い、悲しい、苦しいというような、いわゆる、ありとあらゆる人間の難儀というものがです、ね。まあ、例えて言うなら、その、様々な難儀に当たるのですけれども、まあ、ジガジガするということから行きましょうか、モヤモヤするということから。ね。
もう、そういう例えばね、ジガジガする、モヤモヤする様々な難儀というものはです、もう、この世の中には、もう満ち溢れておるんだ。それを、やはりお釈迦様は、この世は苦の世だと仰った。ね。腹の立つような問題。テレビを見よってから腹の立てるようなことがある。新聞見とって、腹の立てるようなことがある。ね。人が腹かいとるとに、こっちまで腹かいちゃ馬鹿らしかばってん、やっぱモヤモヤするようなこともある。ね。ところがです、それが深刻であればあるほどにです、ね。そういうジガジガするような問題がある時にはです、ここんところをです、ね、ただ、あの、ぐうぐう言うて堪えるというのじゃなくてです、ただ辛抱するというのじゃなくてです、私は先日、一週間ほど前でした。親子で参られた方があった。
月の内にやっぱ5~6回ぐらい参って来るんです。子供さんのある、まあ、身体(不具合?)なんですね。いわゆる、どうしようかといったようなことなんです。それを、お母さんがここでお伺いをされる。それで、貴女のご意見も、貴女の思うとることも先生に申し上げなさいということであった。そりゃずうっとして、ここへ座っちょって向こうの方を見たごたる風で、私がことを見ろうごとなかっじゃろうと思うて、向こう向いとってです。ね。段々お話をするけれども、いっちょん話が身に付かん。
ほれで、そのお母さんも少し( )なってから、ね、親先生の仰ることを良く頂いてから、ね、とお母さんだんに言うたら、ツラーッとここ立ってから、もう、とうとう、その帰ってしもうた。もう、お母さんが気が悪かってですね。もう、先生、いつもあげな風でございます。私がもの言うたっちゃ返事もしません。そして、親に用ある時だと、お母さん、お母さんちゅう。
そして、親が用のある時には見向きもせん。ブーッ。それで、もう、この頃はもう、あの人にはものを言わんことに決めましたち。ね。親子の仲で( )なんでというぐらいに、言うなら苦しいことはない、同じ屋根の下に住んでからですから。ね。だから、それでは〇〇さん、本当に親がかえって子供のために惨めにならなきゃならない。ね。けれども、(私は?よし?)アンタの心はあることだけは間違いないのだから。ね。本当ですよね、親が( )にしよったにゃ、子供がポーッとしとる。もう、こげな惨めな病気てありませんよね。何のためにこの子供をここまでも連れて来たじゃろうかと言うごたる。ね。
だから、そういう時にはそのままじゃないけども、もう、ものを言わんごと決めるがいい。ね。子供が言うまでは、もう、決して言わんという気になるがいい。言いよったら、いよいよ自分が惨めになる。だから、それだけではいけんのだ。だから、自分の心というものは平生心でなからにゃいかん。
そして、相手がああしたボーッてしとる、返事もせん、ものも言わんという、その心(根?)で祈ってやるという心になるのだ。ね。あれがものを言わんけん、私もものを言わん。子供からものを言わんな、こっちが誰が言うかといったようなものではなくてです、ね、そういう時には、たしかに、(ものよしの対象?)をすることはいらん、親が黙っとくがいいけれどもです。あれが黙っとるけん、俺も黙っとるじゃいかんのです。ね。だから、今日からはね、あの人のことは貴女が祈って行きなさいて。あの人もぷんぷんするというところが、やっぱり助かっておらん証拠なんだから。そこに、貴女がそん時に痛みがとれれる、その時に自分の心の中に、和らいだ心が頂けれるために、信心のけいこをしなさい。
いわゆる、われながら心が拝めれるようなけいこをしなさいというのである。それで、今日参って来た。もう先生、本当に楽になりましたち言うんです。ね。もう、とにかくやっぱり、その、ものはあんまり言わんそうです。けれども、今度は向こうが用事のある時に、その、お母さんちゅう時に、もう、それこそ待っとりましたと言いまして返事をするように、自分が心掛け、まあ、そういう風になれた、と。ね、相手のことが祈っておれるから。そしたら、何とはなしにですね、もう、黙っておっても最近ではです、やっぱだいたい、無口なんでしょう。黙っておっても、親子の仲に何かが有り難いものが交流するものをここ4~5日感じますと言う。有り難いですね。ものは言わんでもね、そういうものが家庭の中にです、親子の仲に、夫婦の仲にです、限れば問題ないのです。おしゃべりしとかんならんということないのですから。ね
まあ、お母さんはこの頃、少し変わって来たという風に感じられておるかどうか分からんにしましてもですね、有り難いでしょう。だから、こちらが惨めになっちゃいかんです。ね。向こうが腹を立てた、こっちまでも腹を立てたんじゃ馬鹿らしかという気持ちになってですね、そこに、自分の心の中にそげなこと言えれる私。ね。それこそ( )のあのジガジガじゃないけどもね、本当にあの栗のようにしてですね、海の栗です、栗と言われております、ジガジガ。
もう、本当にジガジガしようごたる時ほどですね、いよいよ、ね、ここを有り難く辛抱させて頂けばね、中には( )な、それこそ天下の珍味と言われるような味わいのものが、その中にはあるということを、私は分かったのです。もう、これはもう、絶対です。ね。先日からも、2~3回前のお月次祭に私が申しましたように。ね。向こうが腹立てるから、こっちまで腹立てたんではね、三宝様をふむようなことになる。三宝様を踏みゃ目がつぶれるということは、せっかく信心によって開けて来る芽もいわば摘めにじってしまうようなもの。せっかくのその芽をふさいでしまうようなもの。ね。
私が分からせて頂いたというのはね、それなんです。ですから、皆さん日々の中にです、腹を立つ問題も、ジガジガするような問題もあるならばです、ね、あるです。ね。だから、それを黙って辛抱するとか、向こうがもの言わんなら、こっちも物を言わんといったようなことでは、(中?)の珍味は生まれて来ない。4~5日経っただけでです、何とはなしに親子の仲に、ね、ものは言わんでも何とはなしに安心した何かが、有り難いものが交流すると言われる。そういうようなものに触れることが出けるのです。
(それが終われば?)千円がとになって来るかも知れん、一万円がとになって来るかも知れん。いわゆる、聖徳太子が続々とそういうような中から行列をつくって入って来なさるわけになるのですよ。それを私どもが、みんな無駄にして行きよる。私が分からせて頂いたのは、もう、このことですから、このことだけは、皆さんがもう、そのまま頂いて下さっていい。もう、当たりもしなければ障りもしない。もう、このまま、(くさっこつもいらん?)、磨くこともいらん。ね。これだけは、そうだと皆さんが私の言うことを信じて思い込んで下さるならです、ね、そこからおかげが受けられるです。ね。
腹の立つような問題は腹立てたら、もう駄目だ。ね。その向こうの方に神様が下さろうとするところの、何とも、もう、言い様のないほどの味わいがその向こうに、もう待っている。もう、これだけは、私がもう、絶対のものとして頂いて、まあ、おるのでございます。
それまでには、ずいぶん、あられぬ行をさせて頂いて、ここまでが分かったんですから。ね。これからは、やっぱ見やすうおかげが受けられるでしょうが、皆さんもそれを信じて下さるなら。ね。それでも、やっぱ腹かかにゃおられん、向こう(が言うなら?)こっちも、やっぱ言わにゃ、もう、いけんと言われりゃ、もうそれまでだけれどね。そういうところを、一つ私は皆さんが、ね、皆さんのものにして頂きたいという風に思います。ね、一つ。おかげを頂いてから、さしもの状態でありました糖尿病が、もう、ほとんど全快の寸前にございます。もう、皆さんの絶大なるお祈り添えが(功?)を(そうして来た)ということでございます。ね。昨日、尿の検査をして頂きました。まあ、100、今まで悪かったんですね。
それが、もう、97~98までぐらい治っとるです。だから、あと、もう二つか三つというところ、まあ、あと一押しというところまで、おかげで、最近は体がきつくない。ね。というところまで、おかげを頂いております。ね。これは、私があの、7~8年間ですね、足があんなに立たなかった時代がございましたけれども、さあ、今夜はお月次祭という時には足が立った。
本当に、先生は演出しござるとじゃなかじゃろうかと思われた向きもずいぶんあった。けれども、今度の糖尿病ばっかりはそんな訳にはいかん。ね。試験紙に現われて来るもんですから、数字的に。ね。だから、それで、前のことも、やっぱほんなこっじゃった( )のようにはいかんですね。昨夜、お風呂へ帰ってからでした。あの、今日のことを先生、聞きなさったですか。あの、私の体のこと。いや、聞きません。今日、高橋さん(白?)を頂いたんですよ、したら、こうこうでしたばい。はあ、とにかくもう、親先生の体は、もう特別ですから。ね。とこう言われるわけです。
本当に私の体が特別でしょうか、足がなえたり、立たんごとなったり。かと言うと、もう、本当にそんな病態患者として、病院に行かねばならないほどに酷い病気がです、御大祭を境に、御大祭までは、もう何日おきに計っても計っても、もう絶対一番きついのだけしか出なかったんですよ、あれだけ養生したけれど。
けれども、本当にあの十五日の前夜祭の晩が、もう山でしたです。そして、16日の御大祭はあのように元気でおかげを頂かせてもろうて、17日、18日と日にち経つにしたがって、おかげを頂いた。現在では、もう全快寸前。もう、100のものが97~98までおかげ頂いておる。大したおかげなんです、ね、言うなら。そこで私にはですね、糖尿病という病気はないのだ。
例えば、私があの時の足が立たなかったのがです、( )を付けるなら付けるか分からんけれどもです、ね、私には胃病もなからなければ、肺病もない。私には糖尿病もない。ただ、それを、名を付けるなら糖尿病というだけで、私には糖尿病じゃない。そこんところのですね、思い込みが出けたということは、私の(もと?)にやられてくるそれが、もう、本当に自由自在ということになって来るのですね。ね。
私は、これは糖尿病と思うととたら、糖尿がそんなに簡単に治りゃせん。糖尿病じゃないです、これから、また酷くなるかも分からん。酷くなったって、それは糖尿病じゃない。何かて、ね、神様のご都合なんです。病気じゃない、と。その病気の本当の本当、本当のこと。ね。真の信心と言う、ね、本当の信心。
ということは、どういうことかと言うとですね、私は本当なことがわかって行くだと思うです。今までは糖尿病とばかり思うておった病気が、糖尿病ではなくて、神様のご都合であると分かった。そこで、なら、どういうご都合であるかと言うとです、まあ、私が分かれただけでも、沢山ある。
第一、私が言やあ辛抱だから、ね、少し本当に(ならじ?)のおかげを下さろうとする神様の働きがです、ね、小食にして下さったり、ね、栄養のことだけを考えて下さる。我武者羅ないわゆる無茶食い無茶飲みをしないで済むようになった。そういうことが、第一、私に下さったご都合であった。ね。
次には、ここにおかげを頂いて、私を親先生と呼ぶ人達が、先生、貴方だけをひもじい思いはさせません。私どもも、ね、三食のものは二食にしてでも、ね、いわば、(ばいそう?)をさせてもらうちゅうわけ。私どもも修行させてもらうと、こう言う。毎日毎日、親先生親先生というお届けが増えて来た。私のために、皆さんが一生懸命、信心をさせて頂くようになった。先ほどから言う、いわゆる、親先生への帰依の道がそういう風にして開かれて来る。親先生への帰依ていうのは、ね、やっぱり親先生のことを一生懸命思わなければ、親先生を拝めるようにならんのですよ。ね。金光大神への帰依というのは、それなんだ。ね。
そういうような素晴らしいことが段々分からせて頂けれるための、神様の言うならば御演出でもあった。もう、糖尿病じゃなかった。ね。もっともっと素晴らしいことをです、ね、神様ご自身が幸せになられるために、ね、ご自身の道を開かれるために、ね、言うなら世界の難儀な氏子が、本当に取次助けて行かれることのために、ね、私を使うて下さったということにもなる。
そういうご都合もあった。まあだ、いくらもある。ね。今日も朝の御理解のように、ね、知ったおかげよりも知らんおかげが多い。ね。信心させて頂いておれば、ね、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと仰るのですから、神様が一石を通して下されば、これに対するところの波紋というものは、もう無限大、限りがない。それを、私どもが分からないだけなんだ。ね。
ですから、私どもがおかげを頂いたと言うとるけれどもですね、そのおかげというものは、もう実に、百頂いとると思うてもです、千も万もお礼を言うても、まだ足らんくらいです、本当を言うたら。ね。皆さん、例えばこの二つのことですよね。病気されてもです、ね、私は肺病でございます、私は胃癌でございます、私は子宮癌でございます。まあ、先生が言うのは言わせよってよか。けれども、自分としては子宮癌じゃない、神様のご都合だ。ね。これは、胃癌じゃない、これは神様のご都合だと分からせてもらう。ね。
そのご都合であるところを分からせてもろうて、そこんところをさせて頂くことによってです、ね、もう、子宮癌が必要で無くなってくる、胃癌が必要で無くなってくる。ね。私から糖尿病がもう必要で無くなって来る時にです、いわゆる、まあ、普通で言うなら全快のおかげということになって来るわけなんです。
私が分かれたことは、もう、この二つです。ね。そげん言ったっちゃ、やっぱ胃が痛むけんで、やっぱ胃病ち自分で決めつけてしまわにゃいけんなら、まあ、それは決めてもいいけれど。ね。信心させて頂く者はそこんところをです、神様のご都合として頂かにゃいけん。ね。
真の信心、と。ね。本当な信心、と。そういう本当の信心ということは、本当のことが分からせて頂くということ。その本当のことが分からせて頂くところの有り難さ。本当のことが分からせて頂くところの楽しさ。ね。そこに、信心はいよいよ楽しい、有り難いものになる。いわゆる、信心をエンジョイして行けれる、信心を楽しんで行けれる。ね。だから皆さん、どうしてもね。そこの本当のところを求めて行くのですから、ね、本当のことをですね、なさることが修行なのです。
これが本当だと思うことはです、ね、成して行くことが修行なんです。今月の今朝の御理解、ね、今月は一つ、いよいよ、ね、これが本当だと思うことをです、本気で元気な心でそこんところを行じて行こうと言う、実意丁寧にそこんところを行うて行こう、と。今月は、ここんところに焦点を絞ろうという今朝の御理解でした。ね、いい加減なことじゃ必ず、おかげもいい加減なことになって来る。ね。
本当の信心とは、本当なことを分かって行くことなんである。だから、私はもう、他にはまだ分かっちょらん。まだ沢山、本当なことがあるだろう。
けれども、今申しましたようにね、例えば、ジガジガするような問題がある。ね。だから、ここを有り難く受けて、一生懸命の精進させてもらや、その向こうにはそれこそ(海?)の中のあの珍味が、あの海栗が入っとるようなですね、それが割られた時にはね、もう中には、もう、天下一品の珍味というような味わいのものが入っておるということだけは、もう、絶対のものとして分かった。ね。
だから、言い訳もいらん。ね。それに、言うて聞かせて、また、返さなんこともない。ね。そこんところを神様におすがりさせて頂いて、相手が分からんでおるのであるから、相手のことを祈らせて頂けれるような気持ちになるとです、この口には言わんでも、心と心が通うて来るようになる、有り難いものになって来る。その有り難いものの中から、おかげが次々と生まれて来る。ね。
そこから、聖徳太子が続いてござるようなおかげにも続くわけなんですよ。ね。不平不足。ね。モヤモヤジガジガ。ね、腹立ち。そういうようなことが、だから、あるということはです、実は楽しいことになって来る。はあ、これの向こうに有り難いものがあるのだから、ここは、どんなことがあっても、一つ、ここは辛抱し抜かせて頂いて、有り難く辛抱し抜かせて頂いてということになって来るのである。
ここを通り抜ければ、絶対のおかげ。そういうおかげが、椛目から合楽にかけておかげを頂いてきた18年間の、信心の私の歩みにすらなっておる。(何か?)ジガジガするような問題がある度に、そこが頂き抜けた時にです、必ず合楽ではおかげを頂いて来たです。ね。
だから私は、そういうおかげを実証して来たわけです。だから、ここなん、ここんところを分かるために、皆さんが修行をなさらんでもです、ね、皆さんが、はあ、そうだと、そこに本気で取り組ませて頂くところの信心になられるならです、ね、そこからおかげが頂けて行けれるのである。ね。
同時に、これは病気だけのことじゃないでしょうけれども、病気ちゅうそのものはない。本当なことはです、それは一般的には病気である。医学上では、まあ、それは糖尿病である。けれども、信心で見ればです、改善な体になれば、糖尿病じゃない、その氏子に対するところの適切なる神様のご都合なのだ。ね。その神様のご都合である、ただ、神様のご都合じゃけんどげんかなるが、もう、病気(になって行くばっかり?)、例えて言うなら。そげなこっじゃいかんでしょうが。ね。
だからその、どういう神様のご都合であるかということを分からせてもろうて、そこを改めて行き、磨いて行くというところにです、ね、私が最近言うておる、一切神愛ということになって来る。私が分からせて頂いたのはそれなん。病気じゃないて。もう、一切神愛と、神様の愛の現われなん。ね。
それを私どもは、いわば、本当の一つ手前の本当を分かって、さあ、病気だと言うて、難儀をしておるわけ。ね。そして、医者じゃ薬だ。なるほど、医者や薬で押さえは出ける。まあ、言うなら色んなことが出けるかも知れんけれども、そこの向こうには何もないでしょうが。ね。神様はその向こうのものを受けてくれよというのが、神の願いなんです。
信心をさせて頂くからに、そこが分かって行かなければならん。昨日の朝の御理解が、いわゆる、本当な信心ということですね。朝、ご神前に出らせて頂きましたら、私がそれこそ指折り数えてみますとね、私が10か11の時であったと思うです。善導寺の教会の総代である(きし)先生ですね、きし先生がおそらく七つ違いですから、18~19の時じゃなかったろうかと思う。親先生が御本部から帰られたばっかりであった。ある正面玄関の( )ちゅうところに二人腰掛けて、それは日曜で子供会があっておったその同時、その当時は子供会であった。そこに手洗い鉢がある。そこんところに、私は何かをしよった。
そしたら二人の先生がですね、そのきし先生がまだ十いくつの時、18~19の時でしょうか。親先生が学院から帰られたばかりのお若い先生である時です。ね。きし先生が親先生に仰っておられることがです、「先生、もう幾人もとは言いません。たった一人で良いから、三井教会の中、本当の信者をつくって下さい」と一生懸命言うておられた。私はそれを子供心に、私の耳に入って来た。
そして私が考えた、「その本当の信者に私がなろう」と私は思うた。本当に思うた。ね。思うたらですね、もう、私は、おかしゅうしてどんこんされんごと、今から思うなら感動だったんですよね。もう、目の前でしょうんない。こっちの方はみかん畑でした。だから、みかん畑に入って泣いたことを私は記憶した、そのことを昨日の朝頂くんです、私がその時のことを。
ですから私はね、言うなら十歳の時から、すでに本当の方へ方向を向けておったということが言える。本当の、たった一人で良いから、本当の信者をつくって下さい。その本当の信者に私がなろうと、これを後で聞いた。ね。皆さん、今、五十になっとっても(信ちゃん?)になっとってもかんまんから、今からでも良いから、本当の信者にならせてもらう、本当の信心を分からせてもらおうと、向きを変えにゃいけんです。ね。そしたら、昨日、御祈念が済んでから末永さんがこうやって参りましてね。
先生、今朝方からお夢を頂きましたち。どんな夢じゃった。それが、大きな栴檀の木がある。それが、もう、ちょうど冬で葉も実も落ちてしまっていると言うのです。ところが、その栴檀からですね、こうやって芽が出だしておるというところを頂いた。それはお夢であった。ね、それは実はね、私は今朝御理解を頂いた、あの本当の信心ということはね、こういうものだと言うて御理解されたが、私は今朝の御理解は、私が少年時代のそういうような情景を頂いて、今朝の御理解を頂いたつよて私は申しました。
だから、言うならば、私がいよいよ、本当のおかげを頂いて行ってですね、本当に私はこれからの喜びを頂いて行ったならですね、親先生という人はやっぱり、ね、子供の頃から違うておられた。それこそ、栴檀は双葉より芳しと言うが、たしかに、それであったということになるだろうと、今ではつまらん。けれども、いよいよ私がおかげを頂いて行くならばです、ね、いわゆる、栴檀双葉にして、その、芳し(しる?)というようなものがです、もう、少年の頃からあったんだということが分かるじゃないか、と。
そのことの、今朝の御理解の裏付けをね、末永さん、アンタは頂いとるとよ、と。こんな小さい実じゃ何が何じゃら分からんけん、はじめ神様は栴檀の木を見せてもらった、大きな。ね、枯れたような栴檀の木じゃったけれども、それから芽が出たと言う。それは、たしかにそういうことであろう。
だから、今からでも遅くないから、本当の信心にならせて頂こうと、私どもは向きを変えさせて頂くところからです、ね、私は本当な信心、本当な信心じゃない、本当なことが分かって来る。本当なことと言うのは、もう、この世の中には病気はないのだ。あるのは、神様のご都合だけなのだ。
もっとそれを、おかげを頂いた暁に考えると、あれ一切が神愛だということになって来る。この世には(かの?)難儀があると言うけれども、あれはジガジガしたような、ね、形はジガジガしておるように、海栗のようなものだけれども、あの中身を割った、その中には、ああいう素晴らしい珍味があるのだ。これは、もうジガジガするから、そっちに向こうさん、これが(こんで?)しまうから、手足も血みどろになって、ように( )ということになってしまって。ね。
中を割ってみならければ、中を分かってみなければ。このジガジガするような問題のその中身といものに触れてみなければ。ね。そこには必ず、天下の珍味と言われるのものが、中にはあるということを、私は分かったと言う。ね。この二つを私が分かったんだ。まあだ、これから、どのくらい分かるじゃ分からん。ね。それを本当な信心というのは、ね、本当な信心というのはです、本当なことが分かって行くということなん。ね。これは( )と病気じゃある。これは、やっぱ肺病じゃある。ね。
それは、ね、本当じゃあるけれども、しかし、本当の本当じゃないち。ね。まいっちょ向こうに肺病ではない、神様のご都合という本当があるのだ。ね。そこんところがスッキリ自分のものになる時にです、どういう病気をかかっても安心。ね。私が分かり得たもの、たったこれ二つ。だから、この二つのことだけには、皆さんが苦労なさらんでん、今晩の御理解を頂いて下されば、今日、只今から役に立つ。ね。
で、そのことを、いよいよ、んなら分からせて頂くために、ね、朝参りでんして来なさいち私が言うのである。ね。いわゆる、信心が好きになりなさいちゅう。ね。信心が好きにならなければです、ね、本当なことが出けんのです。こげんすることがほんなこつばってんか、ね、信心しとるけん、こげんせじゃこてじゃいかん。もう、信心が好きになると、そうしなければおられんのである。ね。
本当の信心、今月、いわゆる一日からですね、どうでしょうかねえ。せめて月次祭だけは本当なことをなさって、だけじゃいかんばってんね、まあ、今まで出けなかった人はせめて、ね、8時から御祈念がはじまる。ね。今日の例えば、このお祭りのごひれいを頂くためには、とても私の信心のひれい、力じゃない。初代先代の御霊様方のおかげに寄らなければならん、と私は思うておるから、必ずお祭り前に、8時から神様への御祈念をさせてもらう。それが、月次祭のはじまり。ね。
それで、10分前でも5分前に来ておって、御取次も頂き終わって、そして、御霊様の御祈念を一緒にさせて頂いて、そして先生方が一口じゃあるけれども、お話をさせてもらう話を聞いて、さっそく、このお月次祭がはじまるのですから。ね。皆さん、どうですか。こうやって、参ってみよる時に、はあ、もう始まっとると思うたら、もう、(ことしんしゅうごとある?)なら、まだ皆さんのとは見こみがあるのです。ね。
ここに( )こうやって来たら、もう走らずにおられん。もう、胸がドキドキするごとある。私そげんでした。もう、時間という時には、もう、善導寺のあのバスの停留所から街中ば一生懸命走った私。ね。親先生が待ってござる、そう思うから、ね、走った。もちろん、月次祭に遅くなるちゅうなことがなかった。時間があっても、そう走り出さないとおられなかった。ね。
私がお芝居が好きですよね、子供の時から好きでした。特に浄瑠璃が好きです。ですから、芝居の歌が決まると、もう、田舎の声なんかはね、もう、手のもういっちょも手前ぐらいから、はじまった時に(ひょうしき?)などがカチカチしたらね、あの(ぎだんガダダンダンで?)もう、例えば( )とっちゃ、もう、こうこうしよる。( )。ね。
本当にそげん好きじゃった。ところがです、芝居は好いとる、ほんに好いとるち言いながらです、まあだよかがの、まだ始まりの間はさんばさんじゃけんちゅうちから。もう、さんばさんは、何かつまらんもんのごたる。本当のお芝居は、(しかし?)さんばそうを見らなければ、芝居を見たごたる気持ちはせん。私だんはさんばさん始まる前から、あの雰囲気ば先ず味わなければね、芝居をを見たごたる感じはせん。
また、本当にそうですよね。あのさんばそうと言うのがです、ね、(後ろを?)眺めも素晴らしいが、踊りも素晴らしい。あのさんばそういっちょ見りゃ、この一座はどの一座であるか( )。ね。お祭りが、はじまりの持つ月次祭のその雰囲気。今、先生(たち?)が手入れしござる、お手伝いもいっちょもさせてもらうというごたる気持ちなの。私は、あなた方が本当に信心が好きなって行きよりなさるということが言えるのじゃなかろうかと思う。
( )なモンはおらんけれどもです、ね、そこんところを一つ皆さんが心掛けさせて頂いて、信心がまず好きにならなければ、楽しいものにも有り難いものにもやって来ないです。ね。先ず、心がけですよ。心掛けなきゃいけません。ね。そこからですね、今日、私が申しましたような、ね、一番はじめに、今日、朝の御理解を申しました。ね。
もとをとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者はみやすうおかげが受けられると仰るけれど、みやすいものとは思われない。思われない、けれども、これから先は見やすいですよ、私が申しました。それをそうだと皆さん信じて下さるなら見やすいです。しかも、(嬉しゅう?空しゅう?だけじゃない、楽しゅうなって来る、有り難うなってくる。ね。
真の信心を残して行く、と。だから、本当に御利益信心から、ね、脱皮して、ね、本当な信心を目指すということは、本当のことを分かる。ために、いよいよ、本気で(名称?梅酒?嬉しゅう?)を頂かなければならないということ。そこに本当な知識が身について来る。いや、それは神様の明知、神様の知恵とも思われるような知恵を私どもの心の中に頂くことが出ける。
だから私は、人やらに立つ時でも有り難い。ね、本当に神心というのが育って来ると、私は思うです。この神様のお働きの中には、それこそ、厳しい厳しい父親の愛にも似たような厳しさと、または、母親の、ね、それこそ愛に抱かれておる、なでさすりされておるといったような情感を感じるような時もある。ね。
そこんところをです、私どもがいよいよ分からせてもろうて、ただ、なでたり、さすったりされるだけが有り難いのじゃない。お叱りを頂くということも、また有り難い。親なればこそ、神様なればこそというようにです、信心がいよいよ、そこんところを分からせて頂くと、いよいよ、また難儀のね、非常に楽しいことになって来る。ね。その難儀を通して、いよいよ本当なことを分からせて頂くところの足がかりともなる。そして、本当なことが分からせて頂けれる信心。それが、私は真の信心だと、こう思うのです。どうぞ。